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武家屋敷

・武家屋敷とは

そもそもの武家屋敷とは、武家が所有した邸宅の事をいいます。
大名が所有していれば大名屋敷や、藩邸などと呼ばれます。昔は
下級武士が住む屋敷は侍屋敷などと呼ばれていましたが、現在で
は混同され、武家屋敷と呼ぶ事もあります。

武家屋敷の原型と呼ばれる構造は、公家の屋敷を基に造られてい
ると言われ、寝殿造がベースとなって造られています。

この形態が主流となったのは、鎌倉時代頃で、武家が活躍し始め
た当時に始まった様式です。これを武家造と呼び、寝殿造をより
簡略化する事で、武家の生活様式に合わせて防衛の施設を備えた
り、御家人集が集まれる場所などを設けたりしている所も特徴の
一つです。

先述の通り、侍屋敷を武家屋敷と呼ぶ事がありますが、本来の武
家屋敷とは造りが違うので、注意したいところでもあります。


・時代の流れによる武家屋敷の変化

武家屋敷の様式が変化したのは、室町時代からです。序々に寝殿
造から独立した会所や対面所などを持った建築様式となり、主殿
造や書院造などが主流となっていきます。

また、安土桃山時代頃には書院造もだんだんと華美な装飾を備え
た物に変化していき、豪華な装飾で権力を誇示するような形式へ
と変化していきます。

江戸時代になると武士や農民の中でも比較的裕福な家の者などの
住宅にも床の間などが取り入れられ、明治以降には民家に普及し
て行きます。

明治維新を境に諸大名の屋敷は幕府から与えられたものだった為
、新政府の手によってその殆どが取り壊されて政府の施設などへ
と姿を変えていきます。

かつての武家や公家は華族になり、屋敷の建築様式による違いな
どは意味をなさないものとなります。次第に武家屋敷も姿を消し
て行くようになり、侍屋敷が武家屋敷と呼ばれるようになったと
いいます。

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重要文化財・熊野奥照神社本殿

・熊野奥照神社の謂われ

看板には「当神社は今から約1189年前、崇神天皇67年の創立
にして斉明天皇4年、阿部比羅夫がこれを崇敬し…」云々と長々と
書かれていますが、とてもわかりずらいので要約します。

簡単に言い直しますと、建立したのは崇神天皇の薦めにより建築さ
れ、ここを崇拝していた人は数多く居て、その中で阿部比羅夫とい
う人物の子孫がここに神輿を奉納し、その際に奥尾崎という場所か
ら扇野庄という場所に遷したと書いてあります。

さらに、桓武天皇殿というのを新しく造った際に、高岡神社と名を
変え、延暦24年には陸奥国高岡熊野神社と名称が変更されます。

ここの本殿を再建したのが信牧公の為、それ以降、津軽氏もこの神
社を崇敬しました。

明治13には阿部比羅夫と坂上田村麿の魂も共に祀り、名称も熊野
奥照神社と変更し、今日に至っているという事のようです。

・熊野奥照神社の歴史

天正16年に津軽為信が社殿の修復を行い、慶長15年には津軽信
牧が社殿の再建を行っています。また、天保13年津軽順承が拝殿
の再建を行うなど、代々この神社は津軽家と深い関わりを持ってい
ます。

明治初頭の神仏分離令により、最勝寺を中心として弘前城を守って
いた12の寺のうち、殆どは廃寺となり、この神社も仏式が廃され
た為に名称を熊野奥照神と改称することになり、その後は明治6年
郷社、明治13年県社に列します。

現在目にすることができる本殿は、慶長15年に再建されたもので
す。三間社流造や、素木造り、柿葺きなどを見る事ができます。

細部にも目をやると、彫刻や組物など、江戸前期の神社建築の色が
色濃く残されています。昭和29年に国指定重要文化財に指定され
社宝の藪手刀は青森県宝、石造りの狛犬と、熊野神社奥照神社板碑
は弘前市の指定有形文化財登録がされています。

狛犬は場所がわかりにくいので、宮司さんにお願いして、拝殿の裏
を見せてもらいましょう。

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弘前八幡宮

・弘前八幡宮

弘前八幡宮は、大浦氏(後の津軽氏)が居城を種里城から大浦城に
移した際に、弘前八幡宮の位置が城から見て鬼門方位に当たった為
、鬼門鎮守の神として崇められます。

天正18年に火災により、焼失すると、大浦為信(後の津軽)氏が
社殿の再建を行います。

為信が弘前に城の移転を計画し、亡くなると工事は中断しますが、
信牧が跡を継ぐと、築城が再開し、その際に、弘前八幡宮も城から
見て北東方位に移築されます。

当時、弘前城の鬼門である北東方位には、最勝寺を頭とする12の
寺や神社が集められていました。

神仏仕分が行われるまでは、その姿だったのですが、神仏仕分を境
に余所に移ったお寺や、廃寺などになったものは数多くあります。

今でこそ、神社とお寺は異なる物と認識がありますが、当時はお寺
を筆頭に、神社もその傘下に入っていたというから驚きです。

・弘前八幡宮の歴史

先に述べたように、弘前城の鬼門には最勝院を囲む12の寺が存在
していましたが、明治時代の初頭に行われた神仏分離令により、多
くの寺は廃寺となりました。

仕分と聞くと、例の人を思い浮かべる所ですが…、この際には弘前
八幡宮も独立して明治6年には郷社、明治13年県社になっていま
す。

天和2年当時は、神輿渡御の祭礼というものが執り行われており、
藩内からは沢山の神官が集まって、各町内から山車が繰り出され、
それは壮大なお祭りだったといいます。

この祭りは、藩主在国の隔年に執り行われるお祭りで、とても賑や
かで、勇壮なお祭りだったそうです。

現在の本殿と唐門は慶長17年建立、本殿は三間社流造のものです
。厚板、葺型銅板葺や、細部にも極彩色が使われ、扉の彫刻などに
は桃山時代の工法が使われています。唐門にも随所にそれが見て取
れ、四隅の反りや、軒唐破風、小組格天井などに特徴が表れていま
す。

昭和11年には国指定重要文化財の指定を受け、多くの観光客や歴
史ファンの目を楽しませています。

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