仲町伝統的建造物群保存地区

・仲町とは

津軽藩が政治を行っていた当時の城下は、上町、仲町、下町の3
つの区画に分けられていました。城の東南部に当たる場所であっ
た上町は上級武士達が住み、下町は城の西側で、岩木川辺りまで
の場所に下級武士達が住み、仲町は御家中屋敷と呼ばれる武家屋
敷が立ち並んだ地域です。

弘前公園の亀甲門から出た場所にあり、総面積は10.6ヘクタ
ールあります。重要伝統的建物保存地区として指定されて景観が
保護されている為、今も変わらぬ昔ながらの佇まいを見る事がで
きます。

武家屋敷は生垣や黒板塀などを特色としており、一部の家屋は公
開されているので一般の方でも見学料金を支払えば見る事が可能
です。

内部を見ると、まさに時代劇の世界にタイムスリップしたかのよ
うな錯覚を覚えるかも知れません。武士達がどういった生活を送
っていたのかを知ると、今の時代の便利さがとても身に染みてわ
かると思います。

歴史的な建物と同じ空間で生活できるラルゴ山王マンションは、
休日やちょっとした空き時間でタイムスリップできる場所に建
っています。

・仲町で見学可能な武家屋敷

仲町で見学が可能な武家屋敷はいくつかあるのですが、それぞれ
の歴史とどういった物が見学できるのかを見ていきましょう。

石場家住宅は、江戸時代の中期に建てられ、後に弘前城の北側、
亀甲門の周辺に移転しました。石場家は弘前藩の御用商家をして
おり、津軽藩が政治を行っていた当時は、雑貨などを商っていま
した。現在は酒屋を営んでいます。ここではこみせと呼ばれる雪
よけの屋根を見る事ができます。

岩田家住宅はほとんど建築当時のまま保存されており、とても貴
重な歴史的資料の一つです。広間や座敷、奥座敷、居間などがあ
り、当時の建物の構造などを見る事ができます。昭和56年に亡
くなった岩田氏の遺志により市に寄贈される事になり、一般の方
が見学できるようになりました。

旧伊東家住宅は、江戸時代の末期に建てられた建物で、当時は藩
医が住む住宅でした。式台や囲炉裏、板大戸などを見学する事が
できます。

旧梅田家住宅は、嘉永5年に建築されました。俸禄百石の武士、
森新次郎が住んでいた住宅でした。昭和57年に梅田氏から弘前
市が譲り受け、現在の場所に移築されました。

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重要文化財・石場家住宅

・石場家の歴史

石場家は代々、弘前藩出入りの商人でした。清兵衛を世襲し、屋
号は○に世と書いてマルセとし、当時は主に藁製品などを取り扱
っていたそうです。

場所は弘前城からも近く、亀甲門向かいの四辻に面し、敷地の広
さや、建物の大きさなどからも当時の豪商ぶりが伺えます。

現在の建物はおよそ19世紀の初頭には現在の場所に移築された
と推測される建物で、木造平屋建て(一部二階)、入母屋造り(
一部切妻)、柾葺、妻入りの建物です。

幅は桁行15.5間、梁間22間とされ、南と西の道路側は雪国
特有のこみせが取り付けられています。

時代の流れと共に、米や肥料などの小売、現在は酒とたばこを扱
うなどし、屋号と共にその名も現代に受け継がれています。

現在の当主は18代目の石場屋清兵衛氏です。


・石場家住宅とは

石場家の建物がいつ建てられたのかは記録が残っていないそうで
、正確な年代はわからないと看板にも書いてあります。

ただ、19世紀の初頭にはこの地に現在の建物が移築されていた
そうなので、その頃から商いをされていたようです。

現代の建物は昭和48年に、国指定重要文化財に指定をされ、全
国に残されている江戸時代からの数少ない建物として貴重な資料
となっています。

この建物の特徴は建物正面が15間半、奥行き22間、間口9間
といいますから相当な大きさだという事がおわかり頂けるかと思
います。

当時としては城に近く、四辻に面した一等地である事から、商家
としてはかなり優遇された立場にあったのかも知れません。

ラルゴ山王マンションは弘前城だけではなく、重要文化財や歴史
あるお寺などに囲まれたとてもいい立地に立っています。

歴史と文化が共存する町は全国的にも数が少ないように思います
。後世に語り継ぎたい文化と共に暮らしているこの町はとても素
敵な場所だと思います。

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旧岩田家住宅

・岩田一族と旧岩田家

色々調べてみると、旧岩田家は元々他の人の住居だったようです
。というのも、岩田家先祖である岩田平吉氏の住まいはこの場所
ではなく、元々小人町寄りにあったようです。

パンフレットにも建物は二百年前のものだが、岩田家がここに住
みはじめたのは明治時代からと書いてあるのでそれも説明がつき
ます。

入り口の看板によると、旧岩田家は建ててすぐに引き家をした傷
が入っている事と、屋根などは建築当時のままですが、内部を4
回程、改装した事がわかっています。

岩田家は5代目と6代目の頃、三百石の家禄があったようですが
質素倹約を心がけて居られたのか、平吉氏が引っ越しをするまで
の先祖が住んでいたであろう屋敷はここより少し、手狭だったよ
うです。

この建物の家主となった岩田平吉氏がここを中古で買ったのだと
思われますが、現在は、岩田家が使っていた明治中頃から昭和5
6年の状態ではなく、江戸時代後期の間取りに内部を戻して見学
できるようにされています。


・旧岩田家

弘前藩では、禄高によって家の広さを決めていたといいます。二
百石50坪、百五十石40坪、百石30坪、五十石25坪、それ
以下が25坪以下で家を建てる事になっていたといいます。

あくまでもこれは参考であって、実際は、それ以下の建物もあっ
たようです。旧岩田家の坪数は25坪、禄高は百から百五十石で
あったのではないかとされています。

この建物は木造平屋建てで、寛政年間から文化年間頃に建築され
た建物だとされています。寄棟、茅葺で、内部には5部屋あり、
床の間のついた座敷、式台のついた玄関、台所、三方の縁、つき
にわなど中級武士の屋敷の造りとなっています。

先述の通り、ここに岩田家が住み始めたのは明治の中期、この敷
地の参考もそれ以前の持ち主の禄高という事になります。

4回ほどされたという改築は、柱や小屋組などの主要部、茅葺に
至るまで建築当時のままで、内装のみを改築した事がわかってい
ます。また、間口が狭くて細長い敷地なども江戸時代からそのま
まの姿を保っています。

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