弘前の食文化
・津軽の食文化とは
津軽は弥生時代の頃から、すでに穀倉地帯であったと言われてい
ます。お米やお餅などを使った食文化が発達していたり、祭事に
伴った行事食の文化も多くあると伝えられています。
その中でも、しとぎもちはもち米を粉末にし、こねて作った皮に
あんこを詰めて神様にお供えするお餅の事を言います。
弘前の郷土料理にはその他に、ごま飯や栗飯、黒豆飯、昆布の巻
き寿司や米を使った漬物、甘味なども沢山あります。ほっけの飯
ずし、うんぺい、がっぱらもち、よしもち等々です。
日本各地でも行われている後世に伝えたい、残したい食文化を津
軽でも料理遺産として食の伝承に努めています。
今やどこの家庭でも作られなくなった物をこうした取り組みでお
店で味わうことができるのはいい事なのでしょうが、忘れ去られ
ていく家庭の味というのはどこか寂しい物を感じます。
・伝統料理、お婆ちゃんの味
津軽は寒い事もあり、昔から長期保存をする為に色んなものを干
したり、漬けたり加工したりして保存してきました。汁物やその
他の料理にも先人の知恵が盛り込まれた物がたくさんあります。
じゃっぱ汁もその一つで、干した鱈をアラごと使って色んな野菜
と煮た汁物をじゃっぱ汁と言います。
けの汁も津軽の代表料理ともいえるもので、ニンジンやゴボウ、
大根、わらびなどを細かく刻んで味噌や醤油で味をつけた汁もの
です。
ごじるや魚汁なんかはテレビで聞いた事があるかも知れませんが
、寒い地方では、甘辛いものや塩分を好む傾向があり、それで血
圧を上げて体温を保っていたそうです。
弘前に訪れたら、焼いた餅や野菜を田楽味噌で頂いたり、漬けも
のや汁物で寒さを凌いだ、東北ならではの文化をぜひ味わってみ
て下さい。
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2012年11月10日 | コメント/トラックバック(0) |
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弘前と珈琲の歴史
・藩士と珈琲
弘前の珈琲文化はとても古い歴史がある、それは150年もにまで遡
ります。
文化4年に幕府からの命により弘前藩士は北方警備と称し、蝦夷地(
北海道)の宗谷岬辺りの警備に赴くことになります。
津軽も寒い地ではありますが、食料事情の悪かった当時に厳冬下の蝦
夷地の寒さはとても厳しく、次々と藩士達の生命を脅かします。原因
はビタミンの不足による浮腫で、多くの藩士は顔がむくんだり、腹水
が溜まって苦しんで亡くなっていったといいます。
実は、この事件から遡る事4年前、蘭学者であった広川カイが書いた
蘭療法という本に浮腫に珈琲が効くという事が既に記されていたので
す。
現代では医療機関や情報網も発達しているのでそのような事はまずあ
り得ませんが、当時はまだ情報網も発達しておらず、折角書かれた本
にも目がとまる事は無かったのです。
・藩士の命を救った珈琲
安政2年になると再び幕府の命により、藩士達は蝦夷地の警備に就く
事になります。
この時には既に珈琲の事は知られており、藩士達にも浮腫の予防薬と
して幕府から警備に赴く藩士に対し、珈琲が支給されました。北方警
備に赴いた者の中には、農民や漁師なども含まれていたといいます。
今となっては当たり前に飲まれている珈琲ですが、この時代、珈琲を
薬や飲み物として嗜んでいたのは、長崎の出島に出入りしていた外国
人や、出島で働く者、蘭学者、金持ちや著名人だけです。
蝦夷地に赴いた弘前藩士と農民や漁師は、理由は異なっていましたが
余所に先駆けて珈琲を口にしていたのですから驚きです。
幕府は藩士に薬として珈琲豆を支給すると共に、目にした事も無けれ
ば口にした事も無い藩士が正しく珈琲を煎れられるように、丁寧に説
明書きをした仕様書のような物も付けたといいます。
弘前には当時の仕様書が大事に保管されており、この仕様書を元に煎
れた珈琲を飲む事ができます。極寒の地で命がけで職務に当たった藩
士に思いを馳せながら珈琲を楽しむのもいいかも知れません。
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2012年10月9日 | コメント/トラックバック(0) |
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弘前りんごの歴史
・初めてのりんご
明治8年、当時弘前で布教活動を行っていたアメリカ人宣教師ジョ
ン・イング氏が、キリスト降誕祭に教え子や信者達に初めてリンゴ
を振る舞ったとされています。
同年4月に内務省勧業寮より、りんごの苗木3本が届けられ、青森
県内初のりんごの試植が行われます。
明治10年、弘前市の養蚕家だった山野茂樹が屋敷の畑に試植した
樹に初めて実がつき、8月15日に収穫され、これが青森県のりん
ご栽培の第1号となります。
同年に北海道の開拓農場で接ぎ木について学んだ菊池楯衛らが化育
社を設立すると、りんごの苗木を育て、配布は販売を開始します。
彼は北海道で学んだ知識と技術を生かし、弘前でのりんご栽培の礎
を作った人物として青森りんごの開祖とも呼ばれています。
明治13年には5年前県庁構内に試植した樹や各農家に配布したす
べての樹に実がなり、青森でのりんご栽培のスタートとなります。
明治17年、旧津軽藩士11名(1ヘクタール以上の果樹園を持つ
者)が集まり、果樹会を結成します。旧士族達が職を失い困窮にあ
えぐのを防ぐ目的もあり、りんご栽培が盛んになったといういい伝
えもあります。
・りんごの父
弘前でりんごを広めた菊池楯衛がりんごの開祖ならば、外崎嘉七は
りんごの父と呼ぶべき人かも知れません。
明治の中頃を過ぎると、これまで問題なく収穫が行われ、すくすく
と育った木々に変化が現れるようになります。これは、りんご栽培
に於ける初めての病害虫の被害で、明治初期に植栽されたりんごの
樹のほとんどが、芯食い虫や綿虫、腐乱性の病害虫などにやられ、
次々と伐採されていきます。
明治36年には県の農業試験場にも害虫係が設けられるなどして、
りんごにつく害虫の駆除方法などが研究されました。
一時は収穫がなくなってしまうほどの深刻な事態に陥ったりんごの
樹を救った人、それが外崎嘉七です。彼は、明治38年に、生育途
中のりんごに袋を被せる事で病害虫が実に入るのを防ぎ、次々と効
果を上げていきます。
その後も栽培方法などが画期的に進化した事により、商品的価値も
格段に上がり、りんご栽培をする農家も徐々に増えていったといい
ます。
美味しいりんご栽培の陰には色んな功労者が居た事がわかります。
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2012年6月30日 | コメント/トラックバック(0) |
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