津軽と太宰治

・太宰の人生

太宰治は言わずと知れた日本の小説家で、彼は、青森県北津軽郡金
木村という場所で生を受けます。父は太宰源右衛門、母はたねと言
い、太宰はこの夫婦の間に生まれた6男坊だったといいます。

太宰の兄弟は11人居ましたが、太宰が生まれた時点で既に長兄と
次兄は他界していたといい、太宰が金木第一尋常小学校を卒業し、
青森県立青森中学校(現高校)に入学する直前には父が他界してし
まうという不幸にも見舞われます。

17歳で作家を志し、泉鏡花などに傾倒しながら太宰は左翼活動に
没頭していったといいます。

太宰の家は比較的裕福だったのか、この時代の人にしては珍しく昭
和5年にはフランス文学への憧れから東京帝国大学文学部仏文学科
へ入学しています。ですが、もともとフランス文学へ憧れただけと
いう曖昧な理由かつ、ハイレベルな学習内容についていけるはずは
無く、学校に通わず、何年も留年し、学費未納などからとうとう除
籍処分となってしまいます。

太宰の人生に於いて、自殺は二度あり、1度目は17歳の頃、知り
合ったカフェの店員と入水自殺をするも失敗し、その後、精神療養
の為、暫く山梨に移り住んで居た太宰は、井伏鱒二の紹介で甲府の
石原美知子と結婚します。この頃が一番太宰の人生で穏やかな時期
だったようですが、その10年後、愛人と玉川上水で入水自殺を図
り、帰らぬ人となります。

・太宰と津軽

太宰は小説津軽を書くにあたり、故郷である青森県の津軽半島を約
3週間程かけて旅行した事があります。

小説「津軽」の一節に「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州
北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、そ
れは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであ
つた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちなが
ら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見
ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたの
である。」と書いています。

また、生まれた場所である金木についてはこう記しています。「金
木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、
六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気
取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば
、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである」

これを書いた時期は、内容から察するに30代頃のものであると思
われますが、17歳で入水自殺を失敗し、その後も少し精神的に病
んでいた時期もあった太宰にとってこの旅は自分自身の原点回帰で
もあったのかも知れません。

自分の町をこれと言って特徴も無いし、ちょっと気取っていて淡白
な町と表現するところなどは、とても太宰らしいと思ってしまいま
す。

この小説「津軽」は太宰の自伝では無く、小説だと言われています
が、太宰の目線で地元津軽を書き上げているので、この本を持ちな
がら太宰が見た津軽を楽しむのもいいかも知れません。

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十三湖とは

・津軽十三湊

一時は幻の港ではないかとも言われた津軽十三湊、だが、発掘調査に
よってこれは伝説や嘘ではないということが明らかになったのです。

発掘調査は1991年からの3年間で行われ、ほぼ当時のままとされ
る街並みなどが発見されたことから、中世の都市としては東日本で最
大規模であった事が確認されます。その規模は、博多に匹敵するとさ
れており、巨大な貿易都市であったことを裏付けています。

この十三湊が築かれたとされるのは、平安時代の終わりで12世紀頃
だとされています。そこから15世紀までの間、海外との貿易を含め
、様々な貿易が行われていた事が発掘からもわかってきています。

十三湖には津軽一帯を流れる岩木川が流れ込み、ここもかつては流通
の経路になっていたと言われています。日本海と繋がった場所に十三
湊はあり、十三湖や繋がる河川を通り、様々な物が運ばれていったと
推測されています。

・安東水軍と安倍氏

今や謎の人物だとされていますが、安東氏とは十三湊を本拠地とする
安東水軍を率いた人だとされています。この安東氏というのは、桓武
天皇の時代に都を追われて落ち延びた安倍氏の子孫が安東の始祖だと
伝えられています。

安東氏は北はアイヌ、東は幕府など様々な人との交渉に長け、中国な
どとも貿易を行い、自ら水軍を率いたリーダー的存在でした。十三湊
の発掘調査でも、リーダー的な存在の屋敷の後が発見されている為、
これが事実だったのではないかと言われています。

15世紀までは賑わいを見せた十三湊でしたが、安東氏が南部氏との
争いに敗れた事から十三湊は放棄され、徐々に衰退していきます。か
つての賑わいこそは無くしましたが、津軽藩はここを重要な拠点とし
、運搬などに使うなどして、十三湊は利用されていたのです。

十三湊の衰退に大きく拍車をかけたものは三つあり、一つは先に挙げ
た安東氏の敗北、二つ目は政治的理由、三つめは出入り口の狭さだと
言われています。

今は静かな水面をたたえる十三湖ですが、かつての栄華は歴史書の中
と復刻された図面の中でしか見ることができないのがとても残念でな
りません。

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津軽と漆塗り

・津軽塗の歴史と池田源兵衛

津軽塗の歴史は裕に三百年を超えると言われ、その元を作ったの
は四代目藩主、津軽信政であると言われています。

11歳で家督を継いだ信政は、伯父の後見を受けながら山鹿素行
や吉川惟足の師事を受けて成長し、幼かった頃から聡明だった信
政は、藩の産業や文化の活性化を図るべく、諸国から技術者を呼
び寄せます。

この時呼び寄せられた技術者の中に、池田源兵衛が居ました。池
田源兵衛は若狭の出身で、江戸の青梅太郎左衛門に師事してその
技法を学んでいたのですが、志も半ばにして病で亡くなってしま
います。その志を息子であった源太郎が継ぎ、技術だけでなく、
父の名も後世に残す事ができたのです。

彼が得た知識と技術は今も尚、津軽塗の伝統としてこの地にしっ
かりと息づいています。

・津軽塗の種類と伝統技法とは

津軽塗の技法は、ヒバ材に布を被せ、漆の液を何回も何回も重ね
て塗り、砥石で模様を研ぎだすというものです。その制作には2
か月もの時間を要するといいます。

津軽塗には唐塗・錦塗・ななこ塗・紋紗塗の4つの伝統技法を用
います。中でも、唐塗が一番一般的だと言われ、下地→斑模様(
漆)→乾燥(1週間)→模様付け(市松)→漆の重ね付け→研磨
(砥石、炭)→艶出し(漆)の工程で完成します。

錦塗はななこ塗の上に錦で模様をあしらったもので、図柄と色に
は決まりがあり、図柄は黒や緑等で古典唐草や卍などを合わせた
物を描き、色は金色に仕上げる決まりがあります。

ななこ塗は下地処理の後に菜種を蒔きつけ、乾いてからはぎ取っ
て小さな輪紋を付けた品のいい塗りで、砥石や炭で綺麗に輪紋を
研ぎだす為、高度な技術が必要とされています。

紋紗塗は玄人好みと言われ、下地の上に黒漆で筆書きし、模様を
付け、乾燥したらもみ殻炭粉を蒔いて砥石や炭で研ぎだします。

津軽塗は日本の伝統工芸品の指定も受けており、独特かつ優美な
様は、国内のみならず海外にも高く評価されています。

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