津軽三味線の歴史

・津軽三味線のルーツ

津軽三味線のルーツは、新潟地方に居た瞽女の三味線が元ではな
いかと言われています。瞽女(ごぜ)は盲御前(めくらごぜん)
とも呼ばれた女性の盲人芸人で、新潟のみならず北陸地方などを
転々としながら三味線の演奏をする旅芸人です。

津軽でも瞽女は芸をして回り、全盲の男性(ボサマ・坊さま)は
、この瞽女から三味線を習ったと言い伝えられています。

ボサマは門付けをして回り、お金やお米などを貰って暮らしてい
たが、各家を回り門の前で三味線を弾き、唄うボサマを蔑む者も
多く、歴史的文献などにもその詳細は記されていないのです。

現代に伝わる三味線のルーツは新しい物が多く、古いものはほと
んどが口伝えであるとされています。当時はまだ階級差別などが
あった為、貧しい上に障害がある者の生きる術は女はイタコ、男
ならボサマになる他無かったとも言われています。

ボサマが生きる為に、三味線や唄、踊りなどを身に付けて人々に
披露していたのだという事を知ると、津軽三味線の物悲しい響き
にその辛さや悲しみが現れているかのように感じます。

・神原の仁太坊

幕末の頃にはぐれ瞽女が旅の途中で、弘前へ着く前に腹痛を起こ
し乗っていた船を下ります。その瞽女を介抱したのが仁太坊の父
でした。しばらくすると、父とはぐれ瞽女は結婚し、間に生まれ
たのが仁太坊ですが、母は間もなく亡くなり、仁太坊も8歳で失
明してしまいます。

当時は栄養価も悪かった事もあり、衛生状態も悪かったせいか、
貧困層の間では天然痘が流行っていた事もことも原因だとされて
います。仁太坊の失明の原因もこの天然痘だったと言われていま
す。

成長した仁太坊もまた、父と同じように瞽女と運命的な出会いを
果たし、その瞽女から三味線と唄を習い、津軽三味線の基礎を会
得したと言われています。

仁太坊は聴衆を喜ばせようと三味線をかき鳴らすうちに、叩くよ
うに弾く演奏方法になっていったといい、その奏法では当時の主
流であった細棹の三味線が耐えられず、幾度も皮を破ったり、弦
を切ってしまった為、限界を感じた仁太坊は三味線を太棹に持ち
替えます。

現在の津軽三味線も、伴奏として弾く時は静かに、三味線のみで
弾く時はアドリブを交えて激しく弾く為、現在も津軽三味線は発
展途上であると言われています。

主に演奏される曲は津軽三つ物と呼ばれ、津軽じょんから節と、
津軽小原節、津軽よされ節とされています。

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弘前ねぷた祭りの歴史

・弘前ねぷた祭りとその謂われ

弘前市で行われる弘前四大祭りの中の一つで、夏祭りとして行われる
とても勇壮なお祭りです。たくさんの人々が「ヤーヤドー」と声をか
けながら武者絵の描かれた山車を引きまわして市内を練り歩きます。

弘前で使うねぷたは扇型の扇ねぷたと、もう一つが人形型の組ねぷた
です。この祭りに出されるねぷたの台数は約80台にも及び、県内で
は最多だと言われています。

ねぷたの語源は「眠り流し」が「ねむた」「ねぷた」へと訛ったとい
う説他、諸説あります。農作物の収穫期に疲れて眠くならないように
、怪我や病気をしないように厄災を水に流すという意味合いがありま
す。

明治から昭和初期は、道場に通う血気盛んな若者達が山車を練り歩い
ていた為、違う道場や町の者と出くわすと石を投げたり、木刀や竹や
りで乱闘する事もしばしばありました。

やりすぎて死人が出る事もあり、ねぷたの禁止令まで出された事さえ
あったのです。当時の名残として、石打無用などと肩の部分に記され
たものまであり、その喧嘩がどれだけの騒ぎだったのか想像がつくか
と思います。



・弘前ねぷたと青森ねぶたの違い

どちらも訛りの差だという説がありますが、弘前はねぷた(Nepu
ta)、青森は(Nebuta)と呼ばれています。語源は農作業に支
障が出ないように、厄災が起きないようにという意味合いなのでどち
らも一緒です。

祭り自体の違いは、弘前は出陣ねぷたと言われ、勇壮なお祭りで、山
車をゆっくりと引きまわして涼しげな笛の音と、力強く響く太鼓の音
が印象的です。一方、青森のねぶたは凱旋ねぶたとも言われ、戦から
勝って帰ってきた姿を現していると言われ、大きな人形の山車とその
周りで乱舞するハネトが祭りを盛り上げる豪華な祭りです。一方は戦
に出向く時、一方は帰ってきた時というように、祭り自体の雰囲気も
山車も少し違っています。

弘前にはこれ以外にも桜祭りや、紅葉祭り、雪灯篭祭りなどがありま
す。祭りにはどこか、日本人の心の奥をくすぐる魅力があると思いま
す。

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旧伊東家住宅

・伊東家とは

この建物に住んでいた伊東家は、津軽藩に代々藩医として務め
ていました。津軽藩医であった伊東家久やその子、伊東基、兄
の重などもこの家で育ちます。

兄の重も父と同じようにやはり医学を志し、政治、教育などの
面でも郷土に貢献し、その名を残しています。弟の基も医学を
志していましたが、途中でドイツ文学の専攻に切り替え、ドイ
ツ語教授などを経験し、ドイツのシーメンスに就職、後にシー
メンス事件が発生すると、帰国し、病院を手伝うなどしていま
したが、不遇の人生を遂げ、兄より先に旅立ちます。

代々医師の家柄ではありましたが、それほど華美な佇まいでは
無く、中級の武士が暮らしていた住居とさほど違わない作りと
なっています。

建物の中に入ると薬を運ぶ為の箱などが置いてある為、ここが
かつて医者の住む家だったことがわかります。

・伊東家住宅とは

先述した通り、津軽藩に代々仕えた藩医の家計で、伊東家の居
宅として建てられたものです。

医者の家と言っても、内観、外観共に中級の武士の家に似た構
造で、とても慎ましく暮らして居られたのだなという印象を受
けます。

この建物が建てられたのは江戸末期です。木造平屋建て、切妻
、平入り、真壁造りの外壁を持っています。

平屋と書きましたが、実は隠し部屋があり、急階段をよじ登る
と二階があります。こちらは現在立ち入る事ができませんので
ご覧になりたい方は、インターネット上でご覧下さい。

弘前藩の中級武士の屋敷は、式台の付いた玄関や、違い棚の付
いた座敷などが備わっています。

伊東家も現在の場所に移築され、平成17年には青森県の重宝
として指定されました。

当時使われていた道具などもそのままに展示されていますので
唯一残された藩医の家をじっくりとご欄下さい。

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