弘前と珈琲の歴史

・藩士と珈琲

弘前の珈琲文化はとても古い歴史がある、それは150年もにまで遡
ります。

文化4年に幕府からの命により弘前藩士は北方警備と称し、蝦夷地(
北海道)の宗谷岬辺りの警備に赴くことになります。

津軽も寒い地ではありますが、食料事情の悪かった当時に厳冬下の蝦
夷地の寒さはとても厳しく、次々と藩士達の生命を脅かします。原因
はビタミンの不足による浮腫で、多くの藩士は顔がむくんだり、腹水
が溜まって苦しんで亡くなっていったといいます。

実は、この事件から遡る事4年前、蘭学者であった広川カイが書いた
蘭療法という本に浮腫に珈琲が効くという事が既に記されていたので
す。

現代では医療機関や情報網も発達しているのでそのような事はまずあ
り得ませんが、当時はまだ情報網も発達しておらず、折角書かれた本
にも目がとまる事は無かったのです。


・藩士の命を救った珈琲

安政2年になると再び幕府の命により、藩士達は蝦夷地の警備に就く
事になります。

この時には既に珈琲の事は知られており、藩士達にも浮腫の予防薬と
して幕府から警備に赴く藩士に対し、珈琲が支給されました。北方警
備に赴いた者の中には、農民や漁師なども含まれていたといいます。

今となっては当たり前に飲まれている珈琲ですが、この時代、珈琲を
薬や飲み物として嗜んでいたのは、長崎の出島に出入りしていた外国
人や、出島で働く者、蘭学者、金持ちや著名人だけです。

蝦夷地に赴いた弘前藩士と農民や漁師は、理由は異なっていましたが
余所に先駆けて珈琲を口にしていたのですから驚きです。

幕府は藩士に薬として珈琲豆を支給すると共に、目にした事も無けれ
ば口にした事も無い藩士が正しく珈琲を煎れられるように、丁寧に説
明書きをした仕様書のような物も付けたといいます。

弘前には当時の仕様書が大事に保管されており、この仕様書を元に煎
れた珈琲を飲む事ができます。極寒の地で命がけで職務に当たった藩
士に思いを馳せながら珈琲を楽しむのもいいかも知れません。

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