重要文化財・長勝寺本堂

・長勝寺の謂われ

長勝寺は享禄元年に大浦盛信の父、光信の菩提を弔う為、菊仙梵寿
を招いて開山したと言われています。

長勝寺は元々種里村にあったお寺で、津軽為信が大浦に移し、その
後、再び慶長16年に弘前城の裏鬼門(北東)に当たる場所に移さ
れ、それが現在の場所になります。

長勝寺は津軽家縁の寺院としてだけではなく、城の裏鬼門鎮守や、
この寺を中心とした禅林街が弘前城の出城的な意味合いも持ってい
たといいます。

この為、城下町との間は土塁が築かれ、西側は堀、北は断崖、東は
湿地帯となっていたと言われています。

宗派は曹洞宗で、山号は大平山、ご本尊は釈迦如来が祀られていま
す。

津軽藩の菩提寺としてだけでなく、祈願所として、また、大飢饉の
際には、餓死者の供養なども行われ、僧録所としての格式を持つお
寺だったようです。


・長勝寺の魅力

長勝寺の象徴ともいえるのは、三門で寛永6年に津軽信牧によって
建立されました。三門一戸の入母屋造りで、屋根は茅吹きとなって
います。この門は国指定重要文化財の指定を受けています。

この三門とは、三解脱門とも呼ばれ、貪・瞋・痴の煩悩を解脱する
門と言われています。

昔は、東西にある副門と南面にある正門の三つを合わせ、三門と呼
んでいましたが、時代が進むと左右に脇門を構えた大門が主流とな
り、さらには大門のみとなっていったものもありますが、呼び名は
そのままに三門と呼ばれています。

慶長年間に建立された本堂と庫裏ですが、本堂は大浦城の台所を移
築したものだと伝わっています。

為信の木造を安置する御影堂、津軽家の御霊屋など、数多くの文化
財に囲まれたお寺であると言えます。

こういった歴史的価値のあるものに囲まれた場所に建つラルゴ山王
は、利便性のみならず、歴史を身近に感じながら生活できる空間と
なっています。

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重要文化財・革秀寺本堂

・革秀寺の歴史

元々は、慶長年間に津軽藩の藩祖であった、津軽為信が現在の藤崎
町に創建し勝寺八世格翁禅師は自らの隠居所としたという言い伝え
があります。

現在の藤代に移したのは、信牧に父であった為信が岩木山がよく見
える場所がいいと遺言で残した為だと言われています。

本堂の修繕銘板によると、藤崎から藤代に移転して直後に火災に遭
い、慶長15年に修繕されたと書かれています。

明治頃には堂宇が荒廃しており、明治39年に修復再建されて現在
の姿を保っています。建築当時は質素だったが、この修繕の際に、
木材は漆が塗られ、内部は極彩色の装飾がなされたといいます。

この寺にある文化財は、本堂、霊屋、秀吉坐像、為信画像、園内の
百日紅が指定を受けています。


・革秀寺

このお寺は曹洞宗の寺院で、釈迦牟尼仏を本尊に祀っています。

津軽藩主であった為信を祀るお寺として山門、本堂、鐘楼、庫
裏、霊屋を有しています。

為信の菩提寺として、遺言の通り、岩木山を美しく眺められる
場所に二代目藩主であった信牧が追善供養としてこの寺を建立
しました。

長勝寺八世格翁禅師が開山し、寺録としては百石を賜ったお寺
でもあります。

土塁と板塀に囲まれた霊屋は入母屋造りで正面には軒唐破風、
屋根にはこけら葺を、内部は壁に板卒塔婆を張り巡らし、宝篋
印塔を安置しています。また、この中には、弘前城の館神だっ
たと言われる木造太閤秀吉座像も安置されています。

この坐像もまた市の文化財指定を受けており、霊屋は重要文化
財の指定を昭和28年に受けています。

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最勝院と五重塔の謂れ

・最勝院とは

天文元年に高僧であった弘信上人が堀越城外に伽藍を設けた事が始
まりとされます。

江戸初期に二代目藩主信牧が弘前城の鬼門に当たる場所に寺院を移
転し、12箇所の塔頭寺院を従えた藩の祈願所となっていましたが
、明治時代に入ると神仏仕分けが行われ、最勝院以外の11箇所の
寺院は廃寺となります。

元々、現在の最勝院の場所には大円寺があったが、大円寺が大鰐町
倉館へ移ると、その跡地に事籍を移すと共に、廃寺となった寺院の
檀家を引き受けます。

その際に譲り受けた五重塔と、弘前の豪商であった一野屋の寄贈に
より建てられた六角堂、五智山普光寺が廃寺になった際に移された
五智如来を安置する五智如来堂があります。一般的に、五智如来は
坐像が多いとされるますが、ここにある五智如来は立像で、造形と
しても珍しいとされています。

・五重塔の謂れ

津軽為信が津軽統一を行った際、戦死した兵を敵味方問わず弔いた
いとの願いを、大円寺の京海が申し出ます。

その申し出を受けた際に帰依していたのは三代目信義であったが、
起工後4年で三重目まで完成した段階で京海は病没、同年信義も他
界してしまいます。発案者と工事の指示を出した者が相次いで亡く
なると、当然工事は中断してしまいます。その後、四代目信政が帰
依すると工事は再開し、完成の運びとなります。

塔の内部には金箔、銀箔などを始めとした様々な色合いが施されて
おり、内部の装飾に至っても丁寧に行われたことが分かります。

明治初頭の動乱により、本尊が不在となった時期(約130年間)
もありましたが、平成15年春には新しい本尊を迎える事になりま
す。

この塔は元々、大円地の所有する五重塔でしたが、明治5年の神仏
仕分けにより、大円寺は大鰐町倉館へ移り、最勝院がその跡地に移
る事になります。その際に、この塔と廃寺になった他の寺の檀家ご
と引き受けたという話も伝わっています。

今は最勝院の五重塔として観光に訪れる人も多いのですが、近隣の
者は今でも親しみを込めて大円寺の五重塔と呼んでいます。

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