津軽と漆塗り

・津軽塗の歴史と池田源兵衛

津軽塗の歴史は裕に三百年を超えると言われ、その元を作ったの
は四代目藩主、津軽信政であると言われています。

11歳で家督を継いだ信政は、伯父の後見を受けながら山鹿素行
や吉川惟足の師事を受けて成長し、幼かった頃から聡明だった信
政は、藩の産業や文化の活性化を図るべく、諸国から技術者を呼
び寄せます。

この時呼び寄せられた技術者の中に、池田源兵衛が居ました。池
田源兵衛は若狭の出身で、江戸の青梅太郎左衛門に師事してその
技法を学んでいたのですが、志も半ばにして病で亡くなってしま
います。その志を息子であった源太郎が継ぎ、技術だけでなく、
父の名も後世に残す事ができたのです。

彼が得た知識と技術は今も尚、津軽塗の伝統としてこの地にしっ
かりと息づいています。

・津軽塗の種類と伝統技法とは

津軽塗の技法は、ヒバ材に布を被せ、漆の液を何回も何回も重ね
て塗り、砥石で模様を研ぎだすというものです。その制作には2
か月もの時間を要するといいます。

津軽塗には唐塗・錦塗・ななこ塗・紋紗塗の4つの伝統技法を用
います。中でも、唐塗が一番一般的だと言われ、下地→斑模様(
漆)→乾燥(1週間)→模様付け(市松)→漆の重ね付け→研磨
(砥石、炭)→艶出し(漆)の工程で完成します。

錦塗はななこ塗の上に錦で模様をあしらったもので、図柄と色に
は決まりがあり、図柄は黒や緑等で古典唐草や卍などを合わせた
物を描き、色は金色に仕上げる決まりがあります。

ななこ塗は下地処理の後に菜種を蒔きつけ、乾いてからはぎ取っ
て小さな輪紋を付けた品のいい塗りで、砥石や炭で綺麗に輪紋を
研ぎだす為、高度な技術が必要とされています。

紋紗塗は玄人好みと言われ、下地の上に黒漆で筆書きし、模様を
付け、乾燥したらもみ殻炭粉を蒔いて砥石や炭で研ぎだします。

津軽塗は日本の伝統工芸品の指定も受けており、独特かつ優美な
様は、国内のみならず海外にも高く評価されています。

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津軽三味線の歴史

・津軽三味線のルーツ

津軽三味線のルーツは、新潟地方に居た瞽女の三味線が元ではな
いかと言われています。瞽女(ごぜ)は盲御前(めくらごぜん)
とも呼ばれた女性の盲人芸人で、新潟のみならず北陸地方などを
転々としながら三味線の演奏をする旅芸人です。

津軽でも瞽女は芸をして回り、全盲の男性(ボサマ・坊さま)は
、この瞽女から三味線を習ったと言い伝えられています。

ボサマは門付けをして回り、お金やお米などを貰って暮らしてい
たが、各家を回り門の前で三味線を弾き、唄うボサマを蔑む者も
多く、歴史的文献などにもその詳細は記されていないのです。

現代に伝わる三味線のルーツは新しい物が多く、古いものはほと
んどが口伝えであるとされています。当時はまだ階級差別などが
あった為、貧しい上に障害がある者の生きる術は女はイタコ、男
ならボサマになる他無かったとも言われています。

ボサマが生きる為に、三味線や唄、踊りなどを身に付けて人々に
披露していたのだという事を知ると、津軽三味線の物悲しい響き
にその辛さや悲しみが現れているかのように感じます。

・神原の仁太坊

幕末の頃にはぐれ瞽女が旅の途中で、弘前へ着く前に腹痛を起こ
し乗っていた船を下ります。その瞽女を介抱したのが仁太坊の父
でした。しばらくすると、父とはぐれ瞽女は結婚し、間に生まれ
たのが仁太坊ですが、母は間もなく亡くなり、仁太坊も8歳で失
明してしまいます。

当時は栄養価も悪かった事もあり、衛生状態も悪かったせいか、
貧困層の間では天然痘が流行っていた事もことも原因だとされて
います。仁太坊の失明の原因もこの天然痘だったと言われていま
す。

成長した仁太坊もまた、父と同じように瞽女と運命的な出会いを
果たし、その瞽女から三味線と唄を習い、津軽三味線の基礎を会
得したと言われています。

仁太坊は聴衆を喜ばせようと三味線をかき鳴らすうちに、叩くよ
うに弾く演奏方法になっていったといい、その奏法では当時の主
流であった細棹の三味線が耐えられず、幾度も皮を破ったり、弦
を切ってしまった為、限界を感じた仁太坊は三味線を太棹に持ち
替えます。

現在の津軽三味線も、伴奏として弾く時は静かに、三味線のみで
弾く時はアドリブを交えて激しく弾く為、現在も津軽三味線は発
展途上であると言われています。

主に演奏される曲は津軽三つ物と呼ばれ、津軽じょんから節と、
津軽小原節、津軽よされ節とされています。

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弘前ねぷた祭りの歴史

・弘前ねぷた祭りとその謂われ

弘前市で行われる弘前四大祭りの中の一つで、夏祭りとして行われる
とても勇壮なお祭りです。たくさんの人々が「ヤーヤドー」と声をか
けながら武者絵の描かれた山車を引きまわして市内を練り歩きます。

弘前で使うねぷたは扇型の扇ねぷたと、もう一つが人形型の組ねぷた
です。この祭りに出されるねぷたの台数は約80台にも及び、県内で
は最多だと言われています。

ねぷたの語源は「眠り流し」が「ねむた」「ねぷた」へと訛ったとい
う説他、諸説あります。農作物の収穫期に疲れて眠くならないように
、怪我や病気をしないように厄災を水に流すという意味合いがありま
す。

明治から昭和初期は、道場に通う血気盛んな若者達が山車を練り歩い
ていた為、違う道場や町の者と出くわすと石を投げたり、木刀や竹や
りで乱闘する事もしばしばありました。

やりすぎて死人が出る事もあり、ねぷたの禁止令まで出された事さえ
あったのです。当時の名残として、石打無用などと肩の部分に記され
たものまであり、その喧嘩がどれだけの騒ぎだったのか想像がつくか
と思います。



・弘前ねぷたと青森ねぶたの違い

どちらも訛りの差だという説がありますが、弘前はねぷた(Nepu
ta)、青森は(Nebuta)と呼ばれています。語源は農作業に支
障が出ないように、厄災が起きないようにという意味合いなのでどち
らも一緒です。

祭り自体の違いは、弘前は出陣ねぷたと言われ、勇壮なお祭りで、山
車をゆっくりと引きまわして涼しげな笛の音と、力強く響く太鼓の音
が印象的です。一方、青森のねぶたは凱旋ねぶたとも言われ、戦から
勝って帰ってきた姿を現していると言われ、大きな人形の山車とその
周りで乱舞するハネトが祭りを盛り上げる豪華な祭りです。一方は戦
に出向く時、一方は帰ってきた時というように、祭り自体の雰囲気も
山車も少し違っています。

弘前にはこれ以外にも桜祭りや、紅葉祭り、雪灯篭祭りなどがありま
す。祭りにはどこか、日本人の心の奥をくすぐる魅力があると思いま
す。

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