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2012年11月10日弘前の食文化とその伝承
弘前の食文化
2012年10月9日弘前の食文化とその伝承
弘前と珈琲の歴史
2012年9月8日弘前の伝統・文化・祭りと郷土史
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2012年7月6日弘前の伝統・文化・祭りと郷土史
津軽と漆塗り

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弘前の食文化

・津軽の食文化とは

津軽は弥生時代の頃から、すでに穀倉地帯であったと言われてい
ます。お米やお餅などを使った食文化が発達していたり、祭事に
伴った行事食の文化も多くあると伝えられています。

その中でも、しとぎもちはもち米を粉末にし、こねて作った皮に
あんこを詰めて神様にお供えするお餅の事を言います。

弘前の郷土料理にはその他に、ごま飯や栗飯、黒豆飯、昆布の巻
き寿司や米を使った漬物、甘味なども沢山あります。ほっけの飯
ずし、うんぺい、がっぱらもち、よしもち等々です。

日本各地でも行われている後世に伝えたい、残したい食文化を津
軽でも料理遺産として食の伝承に努めています。

今やどこの家庭でも作られなくなった物をこうした取り組みでお
店で味わうことができるのはいい事なのでしょうが、忘れ去られ
ていく家庭の味というのはどこか寂しい物を感じます。

・伝統料理、お婆ちゃんの味

津軽は寒い事もあり、昔から長期保存をする為に色んなものを干
したり、漬けたり加工したりして保存してきました。汁物やその
他の料理にも先人の知恵が盛り込まれた物がたくさんあります。

じゃっぱ汁もその一つで、干した鱈をアラごと使って色んな野菜
と煮た汁物をじゃっぱ汁と言います。

けの汁も津軽の代表料理ともいえるもので、ニンジンやゴボウ、
大根、わらびなどを細かく刻んで味噌や醤油で味をつけた汁もの
です。

ごじるや魚汁なんかはテレビで聞いた事があるかも知れませんが
、寒い地方では、甘辛いものや塩分を好む傾向があり、それで血
圧を上げて体温を保っていたそうです。

弘前に訪れたら、焼いた餅や野菜を田楽味噌で頂いたり、漬けも
のや汁物で寒さを凌いだ、東北ならではの文化をぜひ味わってみ
て下さい。

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弘前と珈琲の歴史

・藩士と珈琲

弘前の珈琲文化はとても古い歴史がある、それは150年もにまで遡
ります。

文化4年に幕府からの命により弘前藩士は北方警備と称し、蝦夷地(
北海道)の宗谷岬辺りの警備に赴くことになります。

津軽も寒い地ではありますが、食料事情の悪かった当時に厳冬下の蝦
夷地の寒さはとても厳しく、次々と藩士達の生命を脅かします。原因
はビタミンの不足による浮腫で、多くの藩士は顔がむくんだり、腹水
が溜まって苦しんで亡くなっていったといいます。

実は、この事件から遡る事4年前、蘭学者であった広川カイが書いた
蘭療法という本に浮腫に珈琲が効くという事が既に記されていたので
す。

現代では医療機関や情報網も発達しているのでそのような事はまずあ
り得ませんが、当時はまだ情報網も発達しておらず、折角書かれた本
にも目がとまる事は無かったのです。


・藩士の命を救った珈琲

安政2年になると再び幕府の命により、藩士達は蝦夷地の警備に就く
事になります。

この時には既に珈琲の事は知られており、藩士達にも浮腫の予防薬と
して幕府から警備に赴く藩士に対し、珈琲が支給されました。北方警
備に赴いた者の中には、農民や漁師なども含まれていたといいます。

今となっては当たり前に飲まれている珈琲ですが、この時代、珈琲を
薬や飲み物として嗜んでいたのは、長崎の出島に出入りしていた外国
人や、出島で働く者、蘭学者、金持ちや著名人だけです。

蝦夷地に赴いた弘前藩士と農民や漁師は、理由は異なっていましたが
余所に先駆けて珈琲を口にしていたのですから驚きです。

幕府は藩士に薬として珈琲豆を支給すると共に、目にした事も無けれ
ば口にした事も無い藩士が正しく珈琲を煎れられるように、丁寧に説
明書きをした仕様書のような物も付けたといいます。

弘前には当時の仕様書が大事に保管されており、この仕様書を元に煎
れた珈琲を飲む事ができます。極寒の地で命がけで職務に当たった藩
士に思いを馳せながら珈琲を楽しむのもいいかも知れません。

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津軽と太宰治

・太宰の人生

太宰治は言わずと知れた日本の小説家で、彼は、青森県北津軽郡金
木村という場所で生を受けます。父は太宰源右衛門、母はたねと言
い、太宰はこの夫婦の間に生まれた6男坊だったといいます。

太宰の兄弟は11人居ましたが、太宰が生まれた時点で既に長兄と
次兄は他界していたといい、太宰が金木第一尋常小学校を卒業し、
青森県立青森中学校(現高校)に入学する直前には父が他界してし
まうという不幸にも見舞われます。

17歳で作家を志し、泉鏡花などに傾倒しながら太宰は左翼活動に
没頭していったといいます。

太宰の家は比較的裕福だったのか、この時代の人にしては珍しく昭
和5年にはフランス文学への憧れから東京帝国大学文学部仏文学科
へ入学しています。ですが、もともとフランス文学へ憧れただけと
いう曖昧な理由かつ、ハイレベルな学習内容についていけるはずは
無く、学校に通わず、何年も留年し、学費未納などからとうとう除
籍処分となってしまいます。

太宰の人生に於いて、自殺は二度あり、1度目は17歳の頃、知り
合ったカフェの店員と入水自殺をするも失敗し、その後、精神療養
の為、暫く山梨に移り住んで居た太宰は、井伏鱒二の紹介で甲府の
石原美知子と結婚します。この頃が一番太宰の人生で穏やかな時期
だったようですが、その10年後、愛人と玉川上水で入水自殺を図
り、帰らぬ人となります。

・太宰と津軽

太宰は小説津軽を書くにあたり、故郷である青森県の津軽半島を約
3週間程かけて旅行した事があります。

小説「津軽」の一節に「或るとしの春、私は、生れてはじめて本州
北端、津軽半島を凡そ三週間ほどかかつて一周したのであるが、そ
れは、私の三十幾年の生涯に於いて、かなり重要な事件の一つであ
つた。私は津軽に生れ、さうして二十年間、津軽に於いて育ちなが
ら、金木、五所川原、青森、弘前、浅虫、大鰐、それだけの町を見
ただけで、その他の町村に就いては少しも知るところが無かつたの
である。」と書いています。

また、生まれた場所である金木についてはこう記しています。「金
木は、私の生れた町である。津軽平野のほぼ中央に位し、人口五、
六千の、これといふ特徴もないが、どこやら都会ふうにちよつと気
取つた町である。善く言へば、水のやうに淡泊であり、悪く言へば
、底の浅い見栄坊の町といふ事になつてゐるやうである」

これを書いた時期は、内容から察するに30代頃のものであると思
われますが、17歳で入水自殺を失敗し、その後も少し精神的に病
んでいた時期もあった太宰にとってこの旅は自分自身の原点回帰で
もあったのかも知れません。

自分の町をこれと言って特徴も無いし、ちょっと気取っていて淡白
な町と表現するところなどは、とても太宰らしいと思ってしまいま
す。

この小説「津軽」は太宰の自伝では無く、小説だと言われています
が、太宰の目線で地元津軽を書き上げているので、この本を持ちな
がら太宰が見た津軽を楽しむのもいいかも知れません。

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