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十三湖とは

・津軽十三湊

一時は幻の港ではないかとも言われた津軽十三湊、だが、発掘調査に
よってこれは伝説や嘘ではないということが明らかになったのです。

発掘調査は1991年からの3年間で行われ、ほぼ当時のままとされ
る街並みなどが発見されたことから、中世の都市としては東日本で最
大規模であった事が確認されます。その規模は、博多に匹敵するとさ
れており、巨大な貿易都市であったことを裏付けています。

この十三湊が築かれたとされるのは、平安時代の終わりで12世紀頃
だとされています。そこから15世紀までの間、海外との貿易を含め
、様々な貿易が行われていた事が発掘からもわかってきています。

十三湖には津軽一帯を流れる岩木川が流れ込み、ここもかつては流通
の経路になっていたと言われています。日本海と繋がった場所に十三
湊はあり、十三湖や繋がる河川を通り、様々な物が運ばれていったと
推測されています。

・安東水軍と安倍氏

今や謎の人物だとされていますが、安東氏とは十三湊を本拠地とする
安東水軍を率いた人だとされています。この安東氏というのは、桓武
天皇の時代に都を追われて落ち延びた安倍氏の子孫が安東の始祖だと
伝えられています。

安東氏は北はアイヌ、東は幕府など様々な人との交渉に長け、中国な
どとも貿易を行い、自ら水軍を率いたリーダー的存在でした。十三湊
の発掘調査でも、リーダー的な存在の屋敷の後が発見されている為、
これが事実だったのではないかと言われています。

15世紀までは賑わいを見せた十三湊でしたが、安東氏が南部氏との
争いに敗れた事から十三湊は放棄され、徐々に衰退していきます。か
つての賑わいこそは無くしましたが、津軽藩はここを重要な拠点とし
、運搬などに使うなどして、十三湊は利用されていたのです。

十三湊の衰退に大きく拍車をかけたものは三つあり、一つは先に挙げ
た安東氏の敗北、二つ目は政治的理由、三つめは出入り口の狭さだと
言われています。

今は静かな水面をたたえる十三湖ですが、かつての栄華は歴史書の中
と復刻された図面の中でしか見ることができないのがとても残念でな
りません。

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津軽と漆塗り

・津軽塗の歴史と池田源兵衛

津軽塗の歴史は裕に三百年を超えると言われ、その元を作ったの
は四代目藩主、津軽信政であると言われています。

11歳で家督を継いだ信政は、伯父の後見を受けながら山鹿素行
や吉川惟足の師事を受けて成長し、幼かった頃から聡明だった信
政は、藩の産業や文化の活性化を図るべく、諸国から技術者を呼
び寄せます。

この時呼び寄せられた技術者の中に、池田源兵衛が居ました。池
田源兵衛は若狭の出身で、江戸の青梅太郎左衛門に師事してその
技法を学んでいたのですが、志も半ばにして病で亡くなってしま
います。その志を息子であった源太郎が継ぎ、技術だけでなく、
父の名も後世に残す事ができたのです。

彼が得た知識と技術は今も尚、津軽塗の伝統としてこの地にしっ
かりと息づいています。

・津軽塗の種類と伝統技法とは

津軽塗の技法は、ヒバ材に布を被せ、漆の液を何回も何回も重ね
て塗り、砥石で模様を研ぎだすというものです。その制作には2
か月もの時間を要するといいます。

津軽塗には唐塗・錦塗・ななこ塗・紋紗塗の4つの伝統技法を用
います。中でも、唐塗が一番一般的だと言われ、下地→斑模様(
漆)→乾燥(1週間)→模様付け(市松)→漆の重ね付け→研磨
(砥石、炭)→艶出し(漆)の工程で完成します。

錦塗はななこ塗の上に錦で模様をあしらったもので、図柄と色に
は決まりがあり、図柄は黒や緑等で古典唐草や卍などを合わせた
物を描き、色は金色に仕上げる決まりがあります。

ななこ塗は下地処理の後に菜種を蒔きつけ、乾いてからはぎ取っ
て小さな輪紋を付けた品のいい塗りで、砥石や炭で綺麗に輪紋を
研ぎだす為、高度な技術が必要とされています。

紋紗塗は玄人好みと言われ、下地の上に黒漆で筆書きし、模様を
付け、乾燥したらもみ殻炭粉を蒔いて砥石や炭で研ぎだします。

津軽塗は日本の伝統工芸品の指定も受けており、独特かつ優美な
様は、国内のみならず海外にも高く評価されています。

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津軽三味線の歴史

・津軽三味線のルーツ

津軽三味線のルーツは、新潟地方に居た瞽女の三味線が元ではな
いかと言われています。瞽女(ごぜ)は盲御前(めくらごぜん)
とも呼ばれた女性の盲人芸人で、新潟のみならず北陸地方などを
転々としながら三味線の演奏をする旅芸人です。

津軽でも瞽女は芸をして回り、全盲の男性(ボサマ・坊さま)は
、この瞽女から三味線を習ったと言い伝えられています。

ボサマは門付けをして回り、お金やお米などを貰って暮らしてい
たが、各家を回り門の前で三味線を弾き、唄うボサマを蔑む者も
多く、歴史的文献などにもその詳細は記されていないのです。

現代に伝わる三味線のルーツは新しい物が多く、古いものはほと
んどが口伝えであるとされています。当時はまだ階級差別などが
あった為、貧しい上に障害がある者の生きる術は女はイタコ、男
ならボサマになる他無かったとも言われています。

ボサマが生きる為に、三味線や唄、踊りなどを身に付けて人々に
披露していたのだという事を知ると、津軽三味線の物悲しい響き
にその辛さや悲しみが現れているかのように感じます。

・神原の仁太坊

幕末の頃にはぐれ瞽女が旅の途中で、弘前へ着く前に腹痛を起こ
し乗っていた船を下ります。その瞽女を介抱したのが仁太坊の父
でした。しばらくすると、父とはぐれ瞽女は結婚し、間に生まれ
たのが仁太坊ですが、母は間もなく亡くなり、仁太坊も8歳で失
明してしまいます。

当時は栄養価も悪かった事もあり、衛生状態も悪かったせいか、
貧困層の間では天然痘が流行っていた事もことも原因だとされて
います。仁太坊の失明の原因もこの天然痘だったと言われていま
す。

成長した仁太坊もまた、父と同じように瞽女と運命的な出会いを
果たし、その瞽女から三味線と唄を習い、津軽三味線の基礎を会
得したと言われています。

仁太坊は聴衆を喜ばせようと三味線をかき鳴らすうちに、叩くよ
うに弾く演奏方法になっていったといい、その奏法では当時の主
流であった細棹の三味線が耐えられず、幾度も皮を破ったり、弦
を切ってしまった為、限界を感じた仁太坊は三味線を太棹に持ち
替えます。

現在の津軽三味線も、伴奏として弾く時は静かに、三味線のみで
弾く時はアドリブを交えて激しく弾く為、現在も津軽三味線は発
展途上であると言われています。

主に演奏される曲は津軽三つ物と呼ばれ、津軽じょんから節と、
津軽小原節、津軽よされ節とされています。

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