弘前八幡宮


・弘前八幡宮

弘前八幡宮は、大浦氏(後の津軽氏)が居城を種里城から大浦城に
移した際に、弘前八幡宮の位置が城から見て鬼門方位に当たった為
、鬼門鎮守の神として崇められます。

天正18年に火災により、焼失すると、大浦為信(後の津軽)氏が
社殿の再建を行います。

為信が弘前に城の移転を計画し、亡くなると工事は中断しますが、
信牧が跡を継ぐと、築城が再開し、その際に、弘前八幡宮も城から
見て北東方位に移築されます。

当時、弘前城の鬼門である北東方位には、最勝寺を頭とする12の
寺や神社が集められていました。

神仏仕分が行われるまでは、その姿だったのですが、神仏仕分を境
に余所に移ったお寺や、廃寺などになったものは数多くあります。

今でこそ、神社とお寺は異なる物と認識がありますが、当時はお寺
を筆頭に、神社もその傘下に入っていたというから驚きです。

・弘前八幡宮の歴史

先に述べたように、弘前城の鬼門には最勝院を囲む12の寺が存在
していましたが、明治時代の初頭に行われた神仏分離令により、多
くの寺は廃寺となりました。

仕分と聞くと、例の人を思い浮かべる所ですが…、この際には弘前
八幡宮も独立して明治6年には郷社、明治13年県社になっていま
す。

天和2年当時は、神輿渡御の祭礼というものが執り行われており、
藩内からは沢山の神官が集まって、各町内から山車が繰り出され、
それは壮大なお祭りだったといいます。

この祭りは、藩主在国の隔年に執り行われるお祭りで、とても賑や
かで、勇壮なお祭りだったそうです。

現在の本殿と唐門は慶長17年建立、本殿は三間社流造のものです
。厚板、葺型銅板葺や、細部にも極彩色が使われ、扉の彫刻などに
は桃山時代の工法が使われています。唐門にも随所にそれが見て取
れ、四隅の反りや、軒唐破風、小組格天井などに特徴が表れていま
す。

昭和11年には国指定重要文化財の指定を受け、多くの観光客や歴
史ファンの目を楽しませています。

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