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弘前城築城の歴史

・津軽藩と弘前城の関わり

天正18年、大浦為信は小田原討伐の折、臣従していた南部家に先
駆け、豊臣秀吉から4万5千石の所領安堵の朱印状を与えられます
。これを期に、姓を津軽と改め、津軽為信と名乗る事になります。

大浦城は文亀2年に大浦光信が築いた城で、代々大浦家の子孫がそ
の城を使用していました。ですが、大浦為則の婿養子であった為信
の代になると城番だけを残し、文禄3年から弘前の堀越に築城させ
ていた堀越城に移り住んでしまうのです。

その後は、実質使われていなかった事もあり、1国1城制に伴って
正式に廃城となってしまいます。こうして折角新しい城を建て、大
浦城から堀越城へと移り住んだ為信でしたが、軍事的に不向きな立
地であるとし、鷹岡に新たな城を築く事になります。

この後、慶長5年、関が原の戦いでは、為信は東軍についた為、徳
川家康より加増として2千石与えられ、秀吉から与えられた4万5
千石と合わせ、弘前藩となる。

・弘前城の歴史を探る

弘前城は慶長8年、鷹岡(現弘前市)に築城を開始し、慶長16年
には城全体がほぼ完成します。その間には、為信の死去などがあり
一時は築城が中断した期間もありますが、2代目信牧の指示により
鷹岡城はほぼ完成します。

寛永4年には落雷で天守(5層5階建て)を消失し、以降200年
余り天守閣が無いという状態が続きます。

寛永5年には信牧が帰依していた天海大僧正が弘前と命名し、城名
も鷹岡城から弘前城となります。

文化7年には9代目藩主となる寧親が幕府に願い出た事により、3
層3階の天守が建てらる事となりました。

明治4年には東北鎮台の分営とされたが、6年には廃止され、廃城
命令により、本丸御殿、武芸所などが取り壊されます。

明治27年には旧藩主であった津軽氏が城跡を市民公園として開放
したいと願い出た為、城地の貸与が許可され翌28年には一般開放
の運びとなります。

弘前城のほど近くに建つラルゴ山王は、こうした歴史的価値のある
建物や、文化遺産と共存するマンションです。

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津軽藩について

・津軽藩の歴史

津軽藩(弘前藩)は、陸奥の国津軽郡(青森西部)にあり、大浦為
信が初代藩主です。

大浦氏は元々南部氏の支族であったが、戦国時代の末期、南部氏の
内乱を機に豪族を滅ぼす事に成功し、勢力を広げます。

豊臣秀吉の小田原征伐にも参戦し、その功績により増石を受けます
。また、徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣した際には、徳川に付いて
増石を受け、藩の基礎を築き上げます。

当初の石高は4万7000石から始まり、関ヶ原の報酬など、着実
に伸ばしていき、最終的には、津軽10万石にまで上り詰める事に
成功します。

これまでの間には、お家騒動など様々な問題がありましたが、廃藩
置県が行われ、藩制が廃止になるまでは、弘前と共に歩んだ津軽藩
、そういう意味では為信は現在の弘前の礎を作った人だとも言えま
す。

・揺れる弘前藩

慶長12年になると初代藩主であった為信の死去により、後継ぎ争
いが始まります。

三男であった信牧と、長男の遺児であった熊千代の間で相続を争い
、熊千代を擁立した長男の側近(信牧の妹婿)建広は幕府に対し、
直訴します。本田正信は、熊千代が妥当と判断をするが、安藤直次
の反対により、慶長14年に信牧の相続が決まります。

信牧の相続に反対した者は粛清を受け籠城、高坂蔵人の活躍により
落城します。

熊千代は加藤氏(肥後)に仕える事になったが、病弱で合った事か
ら職を辞し、信牧から貰った合力金で江戸に移り住んで間もなくし
て亡くなっている。

籠城した建広は、弘前追放後、江戸城の医師として使えたが、この
際、追放となった津軽の姓は変えていません。

その後も度重なる内乱や騒動により混乱を極めた時期もあったが、
藩の設置から約280年間も収め続けたのだから見事なものだと
いえます。

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弘前の由来

・鷹岡について

弘前は元々、鷹岡や高岡などと呼ばれていた時期があります。
現在の弘前公園(弘前城)の場所は高台にあり、当時は周囲
に鷹が生息するような森が広がっていました。

その森では鷹狩が行われており、現在の地名の中にも鷹匠町
という場所が弘前公園近くにあります。

鷹岡から弘前に変わった理由については不明だとされていま
すが、色々調べてみた結果こんな記録があります。名前につ
いては諸説ありますが、その中で寛永5年に信牧が帰依して
いた天海大僧正が弘前と命名したというものがあるのが有力
だと思います。

と言うのも、為信が鷹岡に城を築く途中で亡くなり、二代目
の信牧が完成させた城名が鷹岡城であり、寛永5年に地名が
変更になると地名に合わせて城の名前も変更され、鷹岡城か
ら弘前城となったと伝えられているからです。


・弘前と津軽藩の繋がり

弘前の歴史を語るなら、津軽藩との話は切り離せないと思い
ます。

転生18年に津軽為信た上洛した時点では、津軽はまだ3万
石でした。慶長5年には家臣の謀反に合ったりと、色々ごた
ごたした時期はありますが、関ヶ原に出陣した際の褒章とし
て2000石の加増を受けます。

その後、寛文4年には4万7000石に加増となり、元禄2
年には分家に後継ぎが生まれなかった事から1000石の減
石を受けてしまいます。後継ぎ争いが起こらぬように、色々
と幕府が制限を設けていた時代もあったようです。

文化2年には北方警備の為、蝦夷地に藩士を送り、その褒章
として加増され、ついに7万石になりました。文化5年には
ついに10万石となります。

10万石への道のりには内乱や色んな事件もありましたが、
1871年に廃藩置県が行われるまでの長い間、津軽の人々
は、津軽藩と共に歩んできました。廃藩が行われても、旧藩
主であった、津軽家より旧領民の為にと、城内の土地を市民
に開放するべく申し入れを行い、弘前城公園として、市民に
開放されることになったのです。

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