弘前りんごの歴史

・初めてのりんご

明治8年、当時弘前で布教活動を行っていたアメリカ人宣教師ジョ
ン・イング氏が、キリスト降誕祭に教え子や信者達に初めてリンゴ
を振る舞ったとされています。

同年4月に内務省勧業寮より、りんごの苗木3本が届けられ、青森
県内初のりんごの試植が行われます。

明治10年、弘前市の養蚕家だった山野茂樹が屋敷の畑に試植した
樹に初めて実がつき、8月15日に収穫され、これが青森県のりん
ご栽培の第1号となります。

同年に北海道の開拓農場で接ぎ木について学んだ菊池楯衛らが化育
社を設立すると、りんごの苗木を育て、配布は販売を開始します。
彼は北海道で学んだ知識と技術を生かし、弘前でのりんご栽培の礎
を作った人物として青森りんごの開祖とも呼ばれています。

明治13年には5年前県庁構内に試植した樹や各農家に配布したす
べての樹に実がなり、青森でのりんご栽培のスタートとなります。

明治17年、旧津軽藩士11名(1ヘクタール以上の果樹園を持つ
者)が集まり、果樹会を結成します。旧士族達が職を失い困窮にあ
えぐのを防ぐ目的もあり、りんご栽培が盛んになったといういい伝
えもあります。
・りんごの父

弘前でりんごを広めた菊池楯衛がりんごの開祖ならば、外崎嘉七は
りんごの父と呼ぶべき人かも知れません。

明治の中頃を過ぎると、これまで問題なく収穫が行われ、すくすく
と育った木々に変化が現れるようになります。これは、りんご栽培
に於ける初めての病害虫の被害で、明治初期に植栽されたりんごの
樹のほとんどが、芯食い虫や綿虫、腐乱性の病害虫などにやられ、
次々と伐採されていきます。

明治36年には県の農業試験場にも害虫係が設けられるなどして、
りんごにつく害虫の駆除方法などが研究されました。

一時は収穫がなくなってしまうほどの深刻な事態に陥ったりんごの
樹を救った人、それが外崎嘉七です。彼は、明治38年に、生育途
中のりんごに袋を被せる事で病害虫が実に入るのを防ぎ、次々と効
果を上げていきます。

その後も栽培方法などが画期的に進化した事により、商品的価値も
格段に上がり、りんご栽培をする農家も徐々に増えていったといい
ます。

美味しいりんご栽培の陰には色んな功労者が居た事がわかります。

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仲町伝統的建造物群保存地区

・仲町とは

津軽藩が政治を行っていた当時の城下は、上町、仲町、下町の3
つの区画に分けられていました。城の東南部に当たる場所であっ
た上町は上級武士達が住み、下町は城の西側で、岩木川辺りまで
の場所に下級武士達が住み、仲町は御家中屋敷と呼ばれる武家屋
敷が立ち並んだ地域です。

弘前公園の亀甲門から出た場所にあり、総面積は10.6ヘクタ
ールあります。重要伝統的建物保存地区として指定されて景観が
保護されている為、今も変わらぬ昔ながらの佇まいを見る事がで
きます。

武家屋敷は生垣や黒板塀などを特色としており、一部の家屋は公
開されているので一般の方でも見学料金を支払えば見る事が可能
です。

内部を見ると、まさに時代劇の世界にタイムスリップしたかのよ
うな錯覚を覚えるかも知れません。武士達がどういった生活を送
っていたのかを知ると、今の時代の便利さがとても身に染みてわ
かると思います。

歴史的な建物と同じ空間で生活できるラルゴ山王マンションは、
休日やちょっとした空き時間でタイムスリップできる場所に建
っています。

・仲町で見学可能な武家屋敷

仲町で見学が可能な武家屋敷はいくつかあるのですが、それぞれ
の歴史とどういった物が見学できるのかを見ていきましょう。

石場家住宅は、江戸時代の中期に建てられ、後に弘前城の北側、
亀甲門の周辺に移転しました。石場家は弘前藩の御用商家をして
おり、津軽藩が政治を行っていた当時は、雑貨などを商っていま
した。現在は酒屋を営んでいます。ここではこみせと呼ばれる雪
よけの屋根を見る事ができます。

岩田家住宅はほとんど建築当時のまま保存されており、とても貴
重な歴史的資料の一つです。広間や座敷、奥座敷、居間などがあ
り、当時の建物の構造などを見る事ができます。昭和56年に亡
くなった岩田氏の遺志により市に寄贈される事になり、一般の方
が見学できるようになりました。

旧伊東家住宅は、江戸時代の末期に建てられた建物で、当時は藩
医が住む住宅でした。式台や囲炉裏、板大戸などを見学する事が
できます。

旧梅田家住宅は、嘉永5年に建築されました。俸禄百石の武士、
森新次郎が住んでいた住宅でした。昭和57年に梅田氏から弘前
市が譲り受け、現在の場所に移築されました。

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旧伊東家住宅

・伊東家とは

この建物に住んでいた伊東家は、津軽藩に代々藩医として務め
ていました。津軽藩医であった伊東家久やその子、伊東基、兄
の重などもこの家で育ちます。

兄の重も父と同じようにやはり医学を志し、政治、教育などの
面でも郷土に貢献し、その名を残しています。弟の基も医学を
志していましたが、途中でドイツ文学の専攻に切り替え、ドイ
ツ語教授などを経験し、ドイツのシーメンスに就職、後にシー
メンス事件が発生すると、帰国し、病院を手伝うなどしていま
したが、不遇の人生を遂げ、兄より先に旅立ちます。

代々医師の家柄ではありましたが、それほど華美な佇まいでは
無く、中級の武士が暮らしていた住居とさほど違わない作りと
なっています。

建物の中に入ると薬を運ぶ為の箱などが置いてある為、ここが
かつて医者の住む家だったことがわかります。

・伊東家住宅とは

先述した通り、津軽藩に代々仕えた藩医の家計で、伊東家の居
宅として建てられたものです。

医者の家と言っても、内観、外観共に中級の武士の家に似た構
造で、とても慎ましく暮らして居られたのだなという印象を受
けます。

この建物が建てられたのは江戸末期です。木造平屋建て、切妻
、平入り、真壁造りの外壁を持っています。

平屋と書きましたが、実は隠し部屋があり、急階段をよじ登る
と二階があります。こちらは現在立ち入る事ができませんので
ご覧になりたい方は、インターネット上でご覧下さい。

弘前藩の中級武士の屋敷は、式台の付いた玄関や、違い棚の付
いた座敷などが備わっています。

伊東家も現在の場所に移築され、平成17年には青森県の重宝
として指定されました。

当時使われていた道具などもそのままに展示されていますので
唯一残された藩医の家をじっくりとご欄下さい。

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