弘前の由来

・鷹岡について

弘前は元々、鷹岡や高岡などと呼ばれていた時期があります。
現在の弘前公園(弘前城)の場所は高台にあり、当時は周囲
に鷹が生息するような森が広がっていました。

その森では鷹狩が行われており、現在の地名の中にも鷹匠町
という場所が弘前公園近くにあります。

鷹岡から弘前に変わった理由については不明だとされていま
すが、色々調べてみた結果こんな記録があります。名前につ
いては諸説ありますが、その中で寛永5年に信牧が帰依して
いた天海大僧正が弘前と命名したというものがあるのが有力
だと思います。

と言うのも、為信が鷹岡に城を築く途中で亡くなり、二代目
の信牧が完成させた城名が鷹岡城であり、寛永5年に地名が
変更になると地名に合わせて城の名前も変更され、鷹岡城か
ら弘前城となったと伝えられているからです。


・弘前と津軽藩の繋がり

弘前の歴史を語るなら、津軽藩との話は切り離せないと思い
ます。

転生18年に津軽為信た上洛した時点では、津軽はまだ3万
石でした。慶長5年には家臣の謀反に合ったりと、色々ごた
ごたした時期はありますが、関ヶ原に出陣した際の褒章とし
て2000石の加増を受けます。

その後、寛文4年には4万7000石に加増となり、元禄2
年には分家に後継ぎが生まれなかった事から1000石の減
石を受けてしまいます。後継ぎ争いが起こらぬように、色々
と幕府が制限を設けていた時代もあったようです。

文化2年には北方警備の為、蝦夷地に藩士を送り、その褒章
として加増され、ついに7万石になりました。文化5年には
ついに10万石となります。

10万石への道のりには内乱や色んな事件もありましたが、
1871年に廃藩置県が行われるまでの長い間、津軽の人々
は、津軽藩と共に歩んできました。廃藩が行われても、旧藩
主であった、津軽家より旧領民の為にと、城内の土地を市民
に開放するべく申し入れを行い、弘前城公園として、市民に
開放されることになったのです。

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弘前の歴史

弘前の歴史

弘前の歴史は津軽藩と共に歩んできました。津軽藩の城下町とし
て栄えた弘前を200年もの長い間収め続けた津軽藩と津軽氏の
歴史を簡単に振り返ってみましょう。

慶長8年に堀越城主だった津軽為信が鷹岡に築城計画を立てます
。慶長14築城途中だった鷹岡城の完成を待たずして為信が死去
、その計画を息子であった信牧が継ぎ、岩木山が見える場所に菩
提寺として革秀寺を移築します。

慶長15年、父の死去で中断していた築城が再開、2年後の慶長
16年にほぼ完成し、寺社、商人、家臣などが城の周りに移住し
ます。

寛永4年、5層5階建てだった天守が落雷で焼失します。寛永5
年には、信牧が帰依していた天海大僧正がこの地を弘前と名付け
地名と城名を弘前に変更します。

寛文元年、4代目藩主信政が初めて入国。宝永7年に信政没。文
化5年にはついに弘前十万石となる。翌文化6年には黒石藩成立
、その二年後には三階櫓が天守の代用として完成します。

そこから明治4年の7月に廃藩置県となりますが、旧藩主の申し
入れにより、市民に弘前城が公園として開放の運びとなります。

・歴史ある街並みと風情の維持

津軽藩とともに歩んできた弘前ですが、今も残る歴史的景観や、
建物が今後も維持していけるように、弘前市歴史的風致維持向上
計画が文科省らに申請され、平成22年に認定されます。

この計画では先人達から受け継いできた歴史や文化資産の維持や
向上、活用。また、市民が誇りに思い、余所から観光で訪れた人
達にとってそれがとても魅力的に見える街づくりに取り組んでい
ます。

伝統的な建物、寺院、ねぷたなど歴史や伝統のある行事などがず
っと受け継がれていく理想的な街づくりができるといいと思いま
す。

ラルゴ山王マンションの建つ場所山王町は、丁度、過去と現代が
交わる場所です。

周囲に歴史的保存建造物や、弘前城、弘前城を守る為に建てらた
寺院などに囲まれています。

歴史を身近に感じる事ができる環境は、とても羨ましいと思いま
す。

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