旧岩田家住宅

・岩田一族と旧岩田家

色々調べてみると、旧岩田家は元々他の人の住居だったようです
。というのも、岩田家先祖である岩田平吉氏の住まいはこの場所
ではなく、元々小人町寄りにあったようです。

パンフレットにも建物は二百年前のものだが、岩田家がここに住
みはじめたのは明治時代からと書いてあるのでそれも説明がつき
ます。

入り口の看板によると、旧岩田家は建ててすぐに引き家をした傷
が入っている事と、屋根などは建築当時のままですが、内部を4
回程、改装した事がわかっています。

岩田家は5代目と6代目の頃、三百石の家禄があったようですが
質素倹約を心がけて居られたのか、平吉氏が引っ越しをするまで
の先祖が住んでいたであろう屋敷はここより少し、手狭だったよ
うです。

この建物の家主となった岩田平吉氏がここを中古で買ったのだと
思われますが、現在は、岩田家が使っていた明治中頃から昭和5
6年の状態ではなく、江戸時代後期の間取りに内部を戻して見学
できるようにされています。


・旧岩田家

弘前藩では、禄高によって家の広さを決めていたといいます。二
百石50坪、百五十石40坪、百石30坪、五十石25坪、それ
以下が25坪以下で家を建てる事になっていたといいます。

あくまでもこれは参考であって、実際は、それ以下の建物もあっ
たようです。旧岩田家の坪数は25坪、禄高は百から百五十石で
あったのではないかとされています。

この建物は木造平屋建てで、寛政年間から文化年間頃に建築され
た建物だとされています。寄棟、茅葺で、内部には5部屋あり、
床の間のついた座敷、式台のついた玄関、台所、三方の縁、つき
にわなど中級武士の屋敷の造りとなっています。

先述の通り、ここに岩田家が住み始めたのは明治の中期、この敷
地の参考もそれ以前の持ち主の禄高という事になります。

4回ほどされたという改築は、柱や小屋組などの主要部、茅葺に
至るまで建築当時のままで、内装のみを改築した事がわかってい
ます。また、間口が狭くて細長い敷地なども江戸時代からそのま
まの姿を保っています。

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建造物

010武家屋敷
・武家屋敷とは
・時代の流れによる武家屋敷の変化
011旧岩田家住宅
・岩田一族と旧岩田家
・旧岩田家
012重要文化財・石場家住宅
・石場家の歴史
・石場家住宅とは
013旧伊東家住宅
・伊東家とは
・伊東家住宅とは
014仲町伝統的建造物群保存地区
・仲町とは
・仲町で見学可能な武家屋敷

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2012年6月20日 | コメント/トラックバック(0) |

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武家屋敷

・武家屋敷とは

そもそもの武家屋敷とは、武家が所有した邸宅の事をいいます。
大名が所有していれば大名屋敷や、藩邸などと呼ばれます。昔は
下級武士が住む屋敷は侍屋敷などと呼ばれていましたが、現在で
は混同され、武家屋敷と呼ぶ事もあります。

武家屋敷の原型と呼ばれる構造は、公家の屋敷を基に造られてい
ると言われ、寝殿造がベースとなって造られています。

この形態が主流となったのは、鎌倉時代頃で、武家が活躍し始め
た当時に始まった様式です。これを武家造と呼び、寝殿造をより
簡略化する事で、武家の生活様式に合わせて防衛の施設を備えた
り、御家人集が集まれる場所などを設けたりしている所も特徴の
一つです。

先述の通り、侍屋敷を武家屋敷と呼ぶ事がありますが、本来の武
家屋敷とは造りが違うので、注意したいところでもあります。


・時代の流れによる武家屋敷の変化

武家屋敷の様式が変化したのは、室町時代からです。序々に寝殿
造から独立した会所や対面所などを持った建築様式となり、主殿
造や書院造などが主流となっていきます。

また、安土桃山時代頃には書院造もだんだんと華美な装飾を備え
た物に変化していき、豪華な装飾で権力を誇示するような形式へ
と変化していきます。

江戸時代になると武士や農民の中でも比較的裕福な家の者などの
住宅にも床の間などが取り入れられ、明治以降には民家に普及し
て行きます。

明治維新を境に諸大名の屋敷は幕府から与えられたものだった為
、新政府の手によってその殆どが取り壊されて政府の施設などへ
と姿を変えていきます。

かつての武家や公家は華族になり、屋敷の建築様式による違いな
どは意味をなさないものとなります。次第に武家屋敷も姿を消し
て行くようになり、侍屋敷が武家屋敷と呼ばれるようになったと
いいます。

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