重要文化財・革秀寺本堂

・革秀寺の歴史

元々は、慶長年間に津軽藩の藩祖であった、津軽為信が現在の藤崎
町に創建し勝寺八世格翁禅師は自らの隠居所としたという言い伝え
があります。

現在の藤代に移したのは、信牧に父であった為信が岩木山がよく見
える場所がいいと遺言で残した為だと言われています。

本堂の修繕銘板によると、藤崎から藤代に移転して直後に火災に遭
い、慶長15年に修繕されたと書かれています。

明治頃には堂宇が荒廃しており、明治39年に修復再建されて現在
の姿を保っています。建築当時は質素だったが、この修繕の際に、
木材は漆が塗られ、内部は極彩色の装飾がなされたといいます。

この寺にある文化財は、本堂、霊屋、秀吉坐像、為信画像、園内の
百日紅が指定を受けています。


・革秀寺

このお寺は曹洞宗の寺院で、釈迦牟尼仏を本尊に祀っています。

津軽藩主であった為信を祀るお寺として山門、本堂、鐘楼、庫
裏、霊屋を有しています。

為信の菩提寺として、遺言の通り、岩木山を美しく眺められる
場所に二代目藩主であった信牧が追善供養としてこの寺を建立
しました。

長勝寺八世格翁禅師が開山し、寺録としては百石を賜ったお寺
でもあります。

土塁と板塀に囲まれた霊屋は入母屋造りで正面には軒唐破風、
屋根にはこけら葺を、内部は壁に板卒塔婆を張り巡らし、宝篋
印塔を安置しています。また、この中には、弘前城の館神だっ
たと言われる木造太閤秀吉座像も安置されています。

この坐像もまた市の文化財指定を受けており、霊屋は重要文化
財の指定を昭和28年に受けています。

タグ

最勝院と五重塔の謂れ

・最勝院とは

天文元年に高僧であった弘信上人が堀越城外に伽藍を設けた事が始
まりとされます。

江戸初期に二代目藩主信牧が弘前城の鬼門に当たる場所に寺院を移
転し、12箇所の塔頭寺院を従えた藩の祈願所となっていましたが
、明治時代に入ると神仏仕分けが行われ、最勝院以外の11箇所の
寺院は廃寺となります。

元々、現在の最勝院の場所には大円寺があったが、大円寺が大鰐町
倉館へ移ると、その跡地に事籍を移すと共に、廃寺となった寺院の
檀家を引き受けます。

その際に譲り受けた五重塔と、弘前の豪商であった一野屋の寄贈に
より建てられた六角堂、五智山普光寺が廃寺になった際に移された
五智如来を安置する五智如来堂があります。一般的に、五智如来は
坐像が多いとされるますが、ここにある五智如来は立像で、造形と
しても珍しいとされています。

・五重塔の謂れ

津軽為信が津軽統一を行った際、戦死した兵を敵味方問わず弔いた
いとの願いを、大円寺の京海が申し出ます。

その申し出を受けた際に帰依していたのは三代目信義であったが、
起工後4年で三重目まで完成した段階で京海は病没、同年信義も他
界してしまいます。発案者と工事の指示を出した者が相次いで亡く
なると、当然工事は中断してしまいます。その後、四代目信政が帰
依すると工事は再開し、完成の運びとなります。

塔の内部には金箔、銀箔などを始めとした様々な色合いが施されて
おり、内部の装飾に至っても丁寧に行われたことが分かります。

明治初頭の動乱により、本尊が不在となった時期(約130年間)
もありましたが、平成15年春には新しい本尊を迎える事になりま
す。

この塔は元々、大円地の所有する五重塔でしたが、明治5年の神仏
仕分けにより、大円寺は大鰐町倉館へ移り、最勝院がその跡地に移
る事になります。その際に、この塔と廃寺になった他の寺の檀家ご
と引き受けたという話も伝わっています。

今は最勝院の五重塔として観光に訪れる人も多いのですが、近隣の
者は今でも親しみを込めて大円寺の五重塔と呼んでいます。

タグ

弘前城築城の歴史

・津軽藩と弘前城の関わり

天正18年、大浦為信は小田原討伐の折、臣従していた南部家に先
駆け、豊臣秀吉から4万5千石の所領安堵の朱印状を与えられます
。これを期に、姓を津軽と改め、津軽為信と名乗る事になります。

大浦城は文亀2年に大浦光信が築いた城で、代々大浦家の子孫がそ
の城を使用していました。ですが、大浦為則の婿養子であった為信
の代になると城番だけを残し、文禄3年から弘前の堀越に築城させ
ていた堀越城に移り住んでしまうのです。

その後は、実質使われていなかった事もあり、1国1城制に伴って
正式に廃城となってしまいます。こうして折角新しい城を建て、大
浦城から堀越城へと移り住んだ為信でしたが、軍事的に不向きな立
地であるとし、鷹岡に新たな城を築く事になります。

この後、慶長5年、関が原の戦いでは、為信は東軍についた為、徳
川家康より加増として2千石与えられ、秀吉から与えられた4万5
千石と合わせ、弘前藩となる。

・弘前城の歴史を探る

弘前城は慶長8年、鷹岡(現弘前市)に築城を開始し、慶長16年
には城全体がほぼ完成します。その間には、為信の死去などがあり
一時は築城が中断した期間もありますが、2代目信牧の指示により
鷹岡城はほぼ完成します。

寛永4年には落雷で天守(5層5階建て)を消失し、以降200年
余り天守閣が無いという状態が続きます。

寛永5年には信牧が帰依していた天海大僧正が弘前と命名し、城名
も鷹岡城から弘前城となります。

文化7年には9代目藩主となる寧親が幕府に願い出た事により、3
層3階の天守が建てらる事となりました。

明治4年には東北鎮台の分営とされたが、6年には廃止され、廃城
命令により、本丸御殿、武芸所などが取り壊されます。

明治27年には旧藩主であった津軽氏が城跡を市民公園として開放
したいと願い出た為、城地の貸与が許可され翌28年には一般開放
の運びとなります。

弘前城のほど近くに建つラルゴ山王は、こうした歴史的価値のある
建物や、文化遺産と共存するマンションです。

タグ

このページの先頭へ