最勝院と五重塔の謂れ


・最勝院とは

天文元年に高僧であった弘信上人が堀越城外に伽藍を設けた事が始
まりとされます。

江戸初期に二代目藩主信牧が弘前城の鬼門に当たる場所に寺院を移
転し、12箇所の塔頭寺院を従えた藩の祈願所となっていましたが
、明治時代に入ると神仏仕分けが行われ、最勝院以外の11箇所の
寺院は廃寺となります。

元々、現在の最勝院の場所には大円寺があったが、大円寺が大鰐町
倉館へ移ると、その跡地に事籍を移すと共に、廃寺となった寺院の
檀家を引き受けます。

その際に譲り受けた五重塔と、弘前の豪商であった一野屋の寄贈に
より建てられた六角堂、五智山普光寺が廃寺になった際に移された
五智如来を安置する五智如来堂があります。一般的に、五智如来は
坐像が多いとされるますが、ここにある五智如来は立像で、造形と
しても珍しいとされています。

・五重塔の謂れ

津軽為信が津軽統一を行った際、戦死した兵を敵味方問わず弔いた
いとの願いを、大円寺の京海が申し出ます。

その申し出を受けた際に帰依していたのは三代目信義であったが、
起工後4年で三重目まで完成した段階で京海は病没、同年信義も他
界してしまいます。発案者と工事の指示を出した者が相次いで亡く
なると、当然工事は中断してしまいます。その後、四代目信政が帰
依すると工事は再開し、完成の運びとなります。

塔の内部には金箔、銀箔などを始めとした様々な色合いが施されて
おり、内部の装飾に至っても丁寧に行われたことが分かります。

明治初頭の動乱により、本尊が不在となった時期(約130年間)
もありましたが、平成15年春には新しい本尊を迎える事になりま
す。

この塔は元々、大円地の所有する五重塔でしたが、明治5年の神仏
仕分けにより、大円寺は大鰐町倉館へ移り、最勝院がその跡地に移
る事になります。その際に、この塔と廃寺になった他の寺の檀家ご
と引き受けたという話も伝わっています。

今は最勝院の五重塔として観光に訪れる人も多いのですが、近隣の
者は今でも親しみを込めて大円寺の五重塔と呼んでいます。

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