津軽藩について


・津軽藩の歴史

津軽藩(弘前藩)は、陸奥の国津軽郡(青森西部)にあり、大浦為
信が初代藩主です。

大浦氏は元々南部氏の支族であったが、戦国時代の末期、南部氏の
内乱を機に豪族を滅ぼす事に成功し、勢力を広げます。

豊臣秀吉の小田原征伐にも参戦し、その功績により増石を受けます
。また、徳川家康が関ヶ原の戦いに出陣した際には、徳川に付いて
増石を受け、藩の基礎を築き上げます。

当初の石高は4万7000石から始まり、関ヶ原の報酬など、着実
に伸ばしていき、最終的には、津軽10万石にまで上り詰める事に
成功します。

これまでの間には、お家騒動など様々な問題がありましたが、廃藩
置県が行われ、藩制が廃止になるまでは、弘前と共に歩んだ津軽藩
、そういう意味では為信は現在の弘前の礎を作った人だとも言えま
す。

・揺れる弘前藩

慶長12年になると初代藩主であった為信の死去により、後継ぎ争
いが始まります。

三男であった信牧と、長男の遺児であった熊千代の間で相続を争い
、熊千代を擁立した長男の側近(信牧の妹婿)建広は幕府に対し、
直訴します。本田正信は、熊千代が妥当と判断をするが、安藤直次
の反対により、慶長14年に信牧の相続が決まります。

信牧の相続に反対した者は粛清を受け籠城、高坂蔵人の活躍により
落城します。

熊千代は加藤氏(肥後)に仕える事になったが、病弱で合った事か
ら職を辞し、信牧から貰った合力金で江戸に移り住んで間もなくし
て亡くなっている。

籠城した建広は、弘前追放後、江戸城の医師として使えたが、この
際、追放となった津軽の姓は変えていません。

その後も度重なる内乱や騒動により混乱を極めた時期もあったが、
藩の設置から約280年間も収め続けたのだから見事なものだと
いえます。

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